| チャンキーへの西田俊也からの二通目
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チャンキー、早速の返信をありがとう。
最初にだしたぼくの手紙から数日後に届いたので、たいへんびっくりしています。今度の試みに対するチャンキーの熱い期待と意気込みが伝わってくるようですね。
どんなことが書いてあるのだろうか、はやる気持ちをおさえて、まずプリンターで印刷し、雑事をあれこれと片づけたあと(ご飯を食べ、洗い物をして、車で近くののSCに食品と本を買いにいき、風呂に入ったあといよいよ)寝床で寝転がり読みました。
そうか、こうきたかなどとひとりでにやにやしながら、いろんな言葉や、話したいことが心のなかにわき上がりました。そして、チャンキーがいいたいことはなんなのか、考えながら何度か読み直し、いまはこの手紙を書きながら、そのプリントをかたわらに置いて、ときどき手に取ったりしています。
これは「大人の夏休み」ですね、まさに宿題を手にしている気分です。
こういったやり取りは、手紙として考えれば、それほど珍しくもないですね。メールになったおかげで様変わりました。ひとことでいえば、読むことも取り扱うこともとても軽くなった。反面、気軽に言葉を交わせるツールができたのはとてもいいこと。人々が簡単に文章で意志を通い合わせるようになった。
これは携帯の場合ですが、メールで明日会う時間とかいった連絡を取り合ったりしているとき、言葉が似てきますよね。「楽しみにしています」とか「すみませんが、もう少し遅れます」とか。それらを読んでいると、ぼくはAさんに会うつもりなのに、そのやり取りをB
さんとやっていたことがあると、まるでBさんとメールを交わしている気持ちになったりします。
ときにはBさんに対していい思いを持っていないときは、相手がAさんなのに、なんとなくイヤなことを思い出したりして、Aさんに会いたい気持ちが減じたりもします。Aさんにとっては迷惑な話なんですけどね。連絡的なやり取りには、言葉に個性がこもらないので、こちらの勝手な感情を投影させやすいからでしょうね。
でもそういったことの繰り返しだけでは物足りないですね。個性のある、というか、取り替えのできない相手とがっしり向き合うことを通じて、自分も取り替えのできないひとりであることを確認したい。
便利なツールとしての側面を享受しているからこそ、多少時間がかかるやり取りもしたくなるというわけでしよう。
チャンキーが書いているように、ぼくらは「たまー」にしか会いません。でもその「たまー」にが会うと、いつも長くて、濃密な会話を交わすことになりますね。
きっかけはとなると、あの東京行きだったのでしょうね。ともに誰かとじっくり話したいと思っていた、いいときだったんでしょうね。思い出すのは、チャンキーがあのとき、結婚してからおよそ一年半、伴侶であるいぬちゃんと、数日間離れるのは初めてだといってたこと。どこか不安そうでありながら、またしばらく忘れていた自分ひとりという感覚をどこかで思い出していたりもしていた。そんな風にぼくの目には見えて、微笑ましい感じがしました
こうして過去を思い出したり、いまを見つめたり、相手の言葉を聞いて思ったりしながら書いていると、面白いです。ぼくが言葉を向けている相手が、過去の自分、それからチャンキーと過去のチャンキー、さらにいえば未来の自分とチャンキーといったように、広がっていきますね。このへんの気持ちの動きは、単に日記や文章を書いてるときとは違いますね。
さて、ここで話の中身のほうも広がりますけれど、最近うちにかかってくる電話のほとんどが、光ケーブル・インターネットへの誘いなんですね。いまの電話よりもお安く使えるとか、もっと便利になるとか、いろいろいってくる。さらにこれはセールスでなくて、ただ試しに使ってもらって、いらなければ返してもらっていいとかね。
チャンキーのところにもかかっきているんじゃないかな。
彼らは誰かにいいなさいといわれたことを、ときには一生懸命、あるいは気のない様子でいうんだけど、結局うちのを使ってくれたらうちが儲かるということはたしかなわけでね。損をしてまでわざわざいってくるわけがない。
彼らはお客様のためですよというんだけど、ぼくにしてはそのたびに手を止めさせられたり、やり取りのなかでイヤな思いをさせられたりして、全然ためになんかならない。ひたすら迷惑でしかない。
ぼくはいまのところ、ネット環境や電話料金に大きな不満は持ってない。でもこれだけ散々聞かされたり見させられたりしていると、どうも他にすると安くなるみたいだ。知らないのは自分だけで、取り残されているんじゃないかと不安に襲われもする。こいつはまんまと向こうの手の内に落ちているんですけどね。じゃ、それだけいってくるなら、チラシとか見て真面目に検討したりしようかと。たしかに安いみたいだ。いままで自分は無駄にお金を払っていたみたいだ。でもよくよく読んでいくと、どうもいいことばかりでもない。安くなるけれど、その他にいろいろとかさんでくるらしい。安いなら、こんなにいちいちキャンペーンだとかなんだかとか、いわなくてもいいはず。これだけ見たってどう見てもおかしいのに、巧みに語りかけてくる。結局最後は騙されている感じになってくる。検討した時間だけ無駄だった気持ちになる。
ネットのことに限らず、いまの世の中にはこんなことがあふれかってる。安くて便利になるという言葉にみんなはひかれつづけている。
うちの親は、安いものや、タダなものが大好きなんです。とりあえずタダならなんだってもらっておけという主義。うちのなかには、タダでもらったものがゴミのようにあふれている。
ぼくが定価で買ったりした日には、アホやなあ、どこどこにいけばもっと安いのに、あるいは何日に買えば安いのにと、あんたは人間として失格であるみたいなまでにこき下ろされたりする。 |
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チャンキーが書いている「ある種の病」の匂いというのは、このへんのこともいってるのではないかな。
同じ流れでいえば、店にいくといちいちポイントカードがどうだとか、ポイントが二倍になるとかいって、これもうるさい。たしかにポイントを集める楽しさをぼくも知っている。でもポイントが巷にあふれすぎ。流行なんだろうね。
昔、市場で買い物をすると、粗悪な紙に刷られた切手みたいな券をくれて、台紙に糊で貼ったりしたよね。チャンキーの年代だと、知っているかな。その台紙を集めると温泉旅行にいけたり、自転車がもらえたりした。もらったことないけど、親に頼まれて、糊で貼ったりするのが楽しかったね。いまの子供も同じような気持ちでポイントを見ていたりするのだろうけど、市場の台紙には客へのささやかなサービスという匂いと、せっせと集めることで親と子が楽しみを分かつみたいな側面があったんじゃないかな。ぼくのノスタルジックなただの幻想なのかな。いまのポイントは、客をポイントという餌で騙している感じがすごくするんだよなあ。
タワレコとかHMVとかぼくもよく利用するけど、どうして500円ごとで、端数だとポイントに加算されないのか、いつも解せない。あの端数の分はどこへいくのだろうか。面倒くさいという理由だけではないね。それから、何曜日に買えば、二倍のポイントになるとかっていうのもちゃんと計算すると、ふだんのポイントの還元率がいかに低いかということが透けるんだよね。そのことに気づかせない仕組みとしてダブルポイントとかいってるんじゃないかな。
世の中は安いとか得だとかいうことを最大の武器にして、ぼくを巧みに操作しようとしているのではないかな。結果、その企みに乗るか、乗らないか。乗ってもどこか騙されている気持ちが拭えないし、また乗らなければ落ち着かない気持ちにもさせられる。そんなことにいちいち関わるのが面倒きわまりない。単純に、そんな時間に費やすよりも、もっと別な無駄を過ごしていたい。
ぼくは防衛策として、安いという言葉に不感症になろうと決めました。安いと聞いたら、それだけでもう無視してやろうと思っています。安さを第一か上位には考えない。安さは、ついてるかどうかわからないおまけみたいなものと考えることにしている。
デパートの閉店時刻近くの食品売り場で、いまなら三つで千円にしとくよといわれることがありますよね。それほど欲しくないけど、安いなら買うかと思って、つい買ってしまう。ぼくはふたつちょうだいといって千円だしたら、思わず三つくれたりすることのほうがうれしいな。
こういうことへのたしなめの言葉として先人たちは、安物買いの銭失いとか、安いものにいいものなしとか、いろいろいってくれてるね。
そういうとき、河合隼雄さんのもっとも好きだった言葉「ふたつよいことさてないものよ」を思うと、もっと簡単にわかることがあるよね。
この世の中には、ふたつよいことというのはあるんだけど、あったとしてもめったにない。とにかくひとつよいことがあれば、それだけでいいんじゃないか。またそのよいことのなかには必ず悪いこともあるわけで、だからやはりふたつよいことはないと。
ネット環境がよくなるし、安くなる。買い物をすれば、ポイントも貯まる。みんなふたつよいことだよね。はたしてほんとうにふたつよいことなのか。いやいや、そんなことは滅多にないですよということをちょっと頭の片隅に置いておくと、いちいち面倒なことで腹を立てたり
することもぐっと減るし、無駄な時間を過ごしても笑い飛ばせる余裕もできる。
また、この言葉のすごいところは、ふたつよいことがないように、反対に悪いこともなかなかふたつないですよといってるんだよね。悪いことをよく見てみると、必ずよいことが含まれていたりするんだよなあ。
ここでひとついっておきたいのは、河合隼雄さんは名言屋さんでもないし、予言屋さんでもなかった。世の中でもっとも悪条件を背負ってしまって苦しんでいるかもしれない人々の悩みにひたすらついていく体験を通して、言葉を手に入れていった。悪いことのなかに、可能性を見ようとした。
たしか、こんなこともいっておられるよね、クライアントにとってはただのゴミの山のようにしか見えないものが、河合さんにとっては宝の山に見えたといったようなことを。とにかく瓦礫のなかから輝くダイヤを見つけてくる名人だったんだよね。
チャンキーの弟さんに、「あなたは五年で」といわれた言葉を河合さんが告げるまでに、チャンキーの弟さんを見て感じて話して、この人には「五年」という言葉をひとつの目標としていってあげたら、きっとこの人はそのときに向かって努力していかれる力が感じられると信じて、大きな希望を込めて、また自分自身を賭して口にされたんだろうね。河合さんもすごいんだけど、その言葉を信じて生きたチャンキーの弟さんもほんとうにすごいよ。
また河合さんはカウンセラーとは「なにもしないことに全力を尽くす商売」といってるように、ふだんは、こうしなさいとか、ああしなさいとかいわずに、ただクライアントともにいっしょにいることを大事にした。
河合さんは最後の十一ヶ月間をベッドの上で意識のないまま過ごした。奥さんの言葉として新聞に、「十一ヶ月よく頑張ってくれました」「病室では他愛のないことや、毎日のことを話しかけていました」とあった。
看病の心労はどれほどだったかと思う。でもそのしんどさがあるほどに、喜びも感じておられたんじゃないかな。
河合さんが倒れたあと、意識のないまま生き続けてくれた。ぼくは究極の最後のカウンセリングをなさったんだなとぼくは思っている。
中沢新一さんが、河合さんの逝去に対してだしたコメントで、河合さんは亡くなったが、河合さんの夢とならば、ぼくはいまも対話することができると思っているというようなことを述べておられた。
夢という言葉は、河合さんの本、ユング心理学の本をきちんと読み解かないと、誤解を受ける言葉だよね。チャンキーならばどういうことを中沢さんがいってるのかわかってくれると思うので、それ以上は書かないけど、いつかの機会にふたりの言葉としてまた話せればと思う。
チャンキーは今度の個展に「十一ヶ月の夢」とつけようかと考えているんだね。素敵なタイトルだ。チャンキーは心の奥にある無意識と対話を繰り返すことで、河合さんの夢にも触れたのかもしれないし、近くまでいけたのかもしれない。そんな気持ちを込めてのタイトルだとぼくは理解した。
ぼくにも「十一ヶ月の夢」があった。そのことは機会があればまたでてくるでしょう。またそのひとつの答がこの対話の始まりだったのではないだろうか。
こうして書くと、一年をあらわす十二ヶ月でもないし、子供が生まれることを思わせる十ヶ月でもない。なんとも期待と予感を感じさせる数字ですね。いつも途上であるんだね。
ぼくはこの対話を、いまの自分、未来の自分、過去の自分、チャンキーのいま、チャンキーの未来、チャンキーの過去、さらに河合隼雄さん、そして、これを覗き見ることになる顔の見えない読み手という顔ぶれとともに進めていけたらと思っています。なかなか豪華な顔ぶれではないですか。ふたりだけで話しているときも、いろんな自分、いろんなチャンキーと話しているのでしょうが、この対話は時間と空間を越えての対話にもなるから、未知なる可能性がたくさん詰まっているんじゃないでしょうか。そのなかにはいいこともあれば悪いこともある。けれど悪いことのなかには必ずいいことの芽が含まれているんだろうね。
これからの話がいったいどう展開していくのか、楽しみだね。あらゆることを語ることができればいいと願っている。しなやかに、したたかに、軽やかに、のんびりと、あせらず、うだうだと、ときにはびしっと。
四日市にある子供の本の専門店メリーゴーランドが9/17に京都にオープンするというハガキがさっき届いた。この場所はぼくとチャンキーにとっても縁のある場所です。店主の増田さんは、そのHP内の「ひげのおっさん」で、河合さんへの思いを書かれている。まさか京都にメリーゴーランドが店をだすことになるとは思わなかった。きっと河合さんの「十一ヶ月の夢」がそこにも関係しているんだろうね。みんなそれぞれが、その夢の続きを始めているんだ。 |
| 2007/09/15 昔はこの日を敬老の日といってた。 ハッピーマンデーというやつには反対。体育の日とともに、かつての日に戻して欲しいな。
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西田俊也 |