ボクはこのところ、いろいろと深く関わることになってる、、状況です。お金にはあまり結びつくものではありませんが、例えば今回の個展も実はボクからやりたい!と持ちかけたものではありません。ギャラリーのオーナーが大阪から東京へ移転するということで、この大阪のギャラリーでは最後の展示になるから、、とボクに声がかかったのでした。やはりお世話になった場所ですし、最後といわれると、よし!と引き受けた次第なのですが、、
そこにはやはり、ボクがやるべきことがあるのです。さきほどの「今自分がやるべきこと」が待っています。個展をするのも楽ではないけれども、ギャラリーのオーナーと深く関わってきただけに、そしてその足取りにホントウが刻まれてきただけに、今回の個展もやるべきものだった、、のです。
学校も、友人も、ギャラリーとも、そして日々の創作、西田さんとの手紙のやりとり、、などなど、、それぞれに深くコミットしてる感はあります。たまにはセーブしたい、、と思うこともしばしば、、もともとは面倒くさがりなボクですからね、距離を開けておきたいのですが、やはりガッチリからんでしまうのです。これはきっとボクのなかの欲望の1つとして、コミット欲があるとしか思えません。
西田さんが経験されたこの夏の出来事、、深く関わることで、傷つくことも多いですよね。肩にかかった重み、、誰が悪いわけでもないのに、自分にものしかかってくるある種の重み、、なかなか口にだせないこと、、吐き出したい、、けど、、そのしんどさ、、わかります。夢にまででてきたりもしますよね。
ゆうべのことですが、布団と毛布にくるまっても、うまく眠れずにいました。すると、普通なら軽くて気持ちイイ布団や毛布が、その時だけは、なんだか重く、堅く、まるで鎧にでも取り囲まれているような肌ざわりの感覚におちいってしまいました。感情によって、布団1枚、毛布1枚の肌触りがこんなに変ることをあらためて意識しました。神経や脳や皮膚は「こころ」とつながっている、、お互いが関係しあっているということ、、そんな当たり前の事、ときおり「経験」しますね。
その友人の「しんどかったでしょうね、、」と声をかけてくれた態度も素晴らしいですね。つい自分の意見を言いがちになるところを、ただ聞いてくれるという行為こそが、ときに救いになりますね。河合さんのお仕事はまさにそういうものだったのですよね。これってホントに大変なことです。それはやはり、、樹のように、、ただそこに在り続けること、、でも樹ではなく人間なのだけれども、、、これは凄い仕事です。
今回の個展の際のことです。絵のタイトルなどを決めるのが難儀しました。もっとも最近描いた作品を前にして、タイトルが出てきませんでした。とにかくず〜っと作品を眺めながら、、考えた末に出てきた言葉が「ここに在るからこそ、かたち成るもの」でした。
西田さんならおわかりになるでようけれど、これは河合さんが書いていた「形が存在してるのではなく、存在が形になってる」と同じです、、っていうか言葉はお借りした感じです。ただお借りしただけではなく、これしかない!と感じたから付けさせてもらったのです。
「ここに在る」とボクは言い切りたかったのです。っていうかそう感じたのです。描きながら、、出来あがった作品を見ながら、、ここに在ることを、示したかったのです。描いた樹々はたしかにボクの目の前に存在したし、その樹々を眺め、描く、そこから感じた想いは、まさに「ここに在った」と実感したのです。それが作品という形になったことが、今のボクには大変、身になった、、これも「経験」です。
ボクの言う「経験」と、、西田さんの書く「初恋のやりなおし」、、言葉が違えど、同じ意味ではないでしょうか?違うでしょうか?それは頭の中で閉じ込められたものでなく、体で、皮膚で、経験をしたこと、、今のボクが「思い出のなか」で閉じ込めるのでなく「あんな経験したなあ」と懐かしむのでもなく、あらためて、その経験を、その傷を、その想いを、さらに体感すること、、実感すること、、だと感じたのです。そうすることでしか、自分の癖を、傷を、治すことはできないだろし、中年という、危険な時期を乗り越えることができない、、と考えるのです。
「大人」とは、安定するのではなく、さらに「経験し続ける意志」を持つことができる人のことではないでしょうか。物語の見せてくれる光は、その輝く意志のことのようにも思えるのです。西田さんの光、、楽しみに待っております。ではまた、、
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