チャンキーから第4信

西田さま。

今日、ニュースを見ていたら、今年の紅白の司会者の発表!と大々的にテレビに映っていましたが、そろそろ年末だとは、、なんやビックリですね。たしかにこのところ気温は低くなりましたが、それでも冬とまでは感じません。

近くの大川沿いの樹々は黄色や赤色に染まっていますし、銀杏の実は落ちきって、あの臭い匂いをまだ漂わせていたりします。樹々の根元に2匹の蝉の抜け殻が原型をとどめたまま落ちていました。都会のなかにもそれなりに自然はあるのです。奈良の方はここよりも樹々が多いから紅葉も綺麗でしょうね。今頃、西田さんは本格的に物語を綴っているのでしょうね。

ボクのほうは自分の個展「十一かげつのゆめ」が先週の半ばから始まって、その準備やらイベントやらでこの数週間が埋まってしまいました。今回は言ってみれば、長いマラソンレースのゴールまで、走りきった感があります。満足というか、これが今のボクです、、としか言うことができません。とにかくギリギリまで走っていた、、ということです。実際はフルマランなど走った経験がないボクなのですが、、ヘヘヘ、、

先生としては週1回ですが学校へ通っています。学校という現場で、日々、いろいろと感じることができます。ボクは現在40歳で、なにか曲がり角のような気分で日々を過ごしてることと、10代最後から20歳ぐらいの、やはり大人への入り口で不安定な生徒たちと、立ってる場所は同じではないにせよ、それでもどこかリンクしてるところがあるような気もします、とにかく、めんどくさいことや、待たなければいけないことなどなど、、教えることって大変だと思うのですが、子供がいないボクにとってはイイ経験だとも思っています。

あるいは樹々を描く、絵を見る、読む、、それらと、教えることは共通したところが多いようにも思えます。やはりですが、聞く,待つ、が大切になってきます。本質に眼を向けることは、ときに時間がかることだし、自分の意見をあまり言い過ぎると駄目だし、忍耐力というのが必要になってきますね。それでもゆっくりと花開くもの、隠された秘密を教えてもらうためにも、やはり我慢することが大切ですよね。そしてなによりも観察力と、継続する力ということでしょうか。現代では一番おきざりにされているものですし、ボク自身も一番苦手としていたものだったりします。

ノリや勢いで楽しめるものは、ある意味、楽でイイのです。それは悪いことでもないし、ときには必要なことですが、でも毎日がパーティーでは生きていけないように、勢いだけでは乗り切れない現実がありますよね。40歳を迎え、それを痛感していたりもします。過剰なノリや勢いがそこら中にあるのが今の日本ですが、それは何かのはけ口や反動、反発の裏返しなのだと感じます。過剰なものには後に副作用が待ってるのです。それはとても危険だということはそこら中で結果がでてることですよね。

芸術はたしかに過剰なところもあるけれど、ホントはとても地味なことの積み重ねですよね。絵描きとはとにかく絵を描き続けることができる人のことだし、小説家はとにかく物語を紡ぎ続けることができる人だと思います。ノリや勢いだけで、毎日の創作ができるわけはありません。恥ずかしながら、そんな当たり前のことを40歳にしてボクは気づくのでした。

西田さんの甥がご結婚されたのですね。おめでとうございます。実は今、ボクの友人が結婚したのですが、そのパーティーのことでてんやわんやしてる1週間なのです。同じ年齢の友人だし、仲間も多いし、その上、周りは芸達者な方々ばかりで、パーティーはなんだか一代イベントのような感じになってきて、収集がつかない状態になっています。さっきの文章では「毎日がパーティーで生きていけない」と書いておきながら、毎日とはいわないにしても、週末はパーティーだったりしてますね。ありゃりゃ?

まあ〜こうして共通の目的のために大勢の人と一丸になることは素敵なことです。それが仕事ではなく、友人を喜ばすだけのため、、それって大人になれば、つい面倒だったりと、忘れていく感覚ですよね。大切な友人だし、その人が喜んでくれるなら、少々の面倒なことも楽しめる、、河合さんが言ってる「ほんとの友情とは、、と考えたときに今自分がやることとは、、」を問いかけるならば、このパーティーは明るい面での、目の前のことに深く関わることだとも思ったりします

ボクはこのところ、いろいろと深く関わることになってる、、状況です。お金にはあまり結びつくものではありませんが、例えば今回の個展も実はボクからやりたい!と持ちかけたものではありません。ギャラリーのオーナーが大阪から東京へ移転するということで、この大阪のギャラリーでは最後の展示になるから、、とボクに声がかかったのでした。やはりお世話になった場所ですし、最後といわれると、よし!と引き受けた次第なのですが、、

そこにはやはり、ボクがやるべきことがあるのです。さきほどの「今自分がやるべきこと」が待っています。個展をするのも楽ではないけれども、ギャラリーのオーナーと深く関わってきただけに、そしてその足取りにホントウが刻まれてきただけに、今回の個展もやるべきものだった、、のです。

学校も、友人も、ギャラリーとも、そして日々の創作、西田さんとの手紙のやりとり、、などなど、、それぞれに深くコミットしてる感はあります。たまにはセーブしたい、、と思うこともしばしば、、もともとは面倒くさがりなボクですからね、距離を開けておきたいのですが、やはりガッチリからんでしまうのです。これはきっとボクのなかの欲望の1つとして、コミット欲があるとしか思えません。

西田さんが経験されたこの夏の出来事、、深く関わることで、傷つくことも多いですよね。肩にかかった重み、、誰が悪いわけでもないのに、自分にものしかかってくるある種の重み、、なかなか口にだせないこと、、吐き出したい、、けど、、そのしんどさ、、わかります。夢にまででてきたりもしますよね。

ゆうべのことですが、布団と毛布にくるまっても、うまく眠れずにいました。すると、普通なら軽くて気持ちイイ布団や毛布が、その時だけは、なんだか重く、堅く、まるで鎧にでも取り囲まれているような肌ざわりの感覚におちいってしまいました。感情によって、布団1枚、毛布1枚の肌触りがこんなに変ることをあらためて意識しました。神経や脳や皮膚は「こころ」とつながっている、、お互いが関係しあっているということ、、そんな当たり前の事、ときおり「経験」しますね。

その友人の「しんどかったでしょうね、、」と声をかけてくれた態度も素晴らしいですね。つい自分の意見を言いがちになるところを、ただ聞いてくれるという行為こそが、ときに救いになりますね。河合さんのお仕事はまさにそういうものだったのですよね。これってホントに大変なことです。それはやはり、、樹のように、、ただそこに在り続けること、、でも樹ではなく人間なのだけれども、、、これは凄い仕事です。

今回の個展の際のことです。絵のタイトルなどを決めるのが難儀しました。もっとも最近描いた作品を前にして、タイトルが出てきませんでした。とにかくず〜っと作品を眺めながら、、考えた末に出てきた言葉が「ここに在るからこそ、かたち成るもの」でした。

西田さんならおわかりになるでようけれど、これは河合さんが書いていた「形が存在してるのではなく、存在が形になってる」と同じです、、っていうか言葉はお借りした感じです。ただお借りしただけではなく、これしかない!と感じたから付けさせてもらったのです。

「ここに在る」とボクは言い切りたかったのです。っていうかそう感じたのです。描きながら、、出来あがった作品を見ながら、、ここに在ることを、示したかったのです。描いた樹々はたしかにボクの目の前に存在したし、その樹々を眺め、描く、そこから感じた想いは、まさに「ここに在った」と実感したのです。それが作品という形になったことが、今のボクには大変、身になった、、これも「経験」です。

ボクの言う「経験」と、、西田さんの書く「初恋のやりなおし」、、言葉が違えど、同じ意味ではないでしょうか?違うでしょうか?それは頭の中で閉じ込められたものでなく、体で、皮膚で、経験をしたこと、、今のボクが「思い出のなか」で閉じ込めるのでなく「あんな経験したなあ」と懐かしむのでもなく、あらためて、その経験を、その傷を、その想いを、さらに体感すること、、実感すること、、だと感じたのです。そうすることでしか、自分の癖を、傷を、治すことはできないだろし、中年という、危険な時期を乗り越えることができない、、と考えるのです。

「大人」とは、安定するのではなく、さらに「経験し続ける意志」を持つことができる人のことではないでしょうか。物語の見せてくれる光は、その輝く意志のことのようにも思えるのです。西田さんの光、、楽しみに待っております。ではまた、、



チャンキー松本