河合さんの奥様である喜代子夫人の書いたあとがきに「夫の入院中に私は毎日病院に通いました。静かな病室で、安らかな眠りの中にいる夫の顔を見つめながら毎日、ずっと2人で会話して過ごしていたような気がします」とありました。ボクはその時間こそが、最後のページに一番必要なものだと感じました。その11ヶ月間の会話、、とても静かで、、豊潤な時、、
すべての執着心は、自分の欠落を埋めるためのもの、、欠落したまま、どんなに上からりっぱな装飾をしたって、それはいつか消えてなくなる、、物質文化では「物の寿命が長いもの」は嫌われます。人は便利になるために、楽に生きるために、文明を育んできたはずだし、それは「人が長く生きるために」生み出されたものだったはずです。その便利で簡単で、寿命は短い物が溢れた世界で、ボクらの心はえらく歪んでしまっています。長寿というものを得たとしても、心が歪んでしまっては、、それでも生き、心の歪みを誤魔化すために、さらなる便利なものを創るこの世界を、、ボクらはどう考えればイイのでしょうか?
「ハァちゃん」の中で、やさしいお母さんがハァちゃんの頬に平手打ちをするシーンの後、おかあさんはハァちゃんに「失敗は誰でもあるんや。なんぼ失敗しても、すねたらアカン。わかったやろ。すねたらあかんのやで」と話します。ハァちゃんに初めておとずれる「何ともいえない不安感と孤独感を感じる」思春期という入り口で、そのまま、すねたままで、暗闇に入っていったとしたら、、、そこで見せたおかあさんの捨て身の平手打ち。それによってハァちゃんは目が覚める、、心の歪みを治してくれる存在、、
現代はさらに子供でなくとも、大人であるボクらにだって、すぐそばに暗闇が待っているはずです。そんな時に「すねたらあかん!」と平手打ちをする、そのまっすぐな表現こそ、、やはり大切なのだと思います。そこにはしっかりとした根元が大切ですよね。強い絆による信頼が必要となりますね。
西田さんもボクも、表現の違いはあっても、自分の根元を見つめる作業をしているのだと感じるのです。どうでしょうか?個々の物語を創ることは、この根元を見つめることだとも感じてきます。ボクはたまたま樹々の根元を描いた1年でした。それがここにきて、重い現実の前で、自分の根元というものをまた一度見つめることになってきました。この現実から学ぶことがきっとたくさんあるはずだと思っています。
暗闇は恐ろしいものです。それは人の命を奪うほどの力があります。それを今、目の当たりにしています。その中でボクに与えられた使命があるのだと思っています。ボクの血の、、その繋がりの中で、ボクがやるべきことがあると感じています。ボクが芸術をやる意味がそこにあるのかもしれません。その根元に、、
今日はクリスマスイブですね。とくになにをするわけでもありませんが、、そして今年も終わりです。この半年の間、往復書簡ができたこと、幸せに感じています。創作中の西田さんには正月などないかもしれませんが、、また新年明けてもよろしくお願いしますね。そしてなによりも新作の小説、、ボクの個展と同時期に始まったその物語、、なんだか今からワクワクしています。では風邪などひかぬように、、新しい年が明けたらまたお会いできれば嬉しいです。では。
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