西田から第6信

 チャンキー、こんにちは。
 手紙をありがとう。ぼくは相変わらず小説を書く毎日です。
 これまで長編小説はどれだけ長くても四十日くらいでひとつの稿を集中的に書き上げるスタイルをとってきました。息をつめて水に潜っているというか、短距離的な勢い勝負というか、一心不乱に小説だけを考えるのです。とはいえ一心不乱というのはなかなかむずかしくて、無我夢中ともいいかえてもいい精神状態の持続には限界もあります。また一心不乱になったからといって中身がよくなるかというと違っていたりします。では一心不乱をきわめるとはどういうことかと、これまた考えるとむずかしいのだけど、ひとつ明らかなのは、従来のスタイルでやっていては目指したい小説に向かおうとしても突破できない壁があることでした。そこで今回はふだん通りの暮らしをしながら、集中力を持続させていく方法はできないかと挑戦したのです。

 前回にも書いたようにチャンキーの個展のスタートと同じ日に書き始めたわけです。今日は大晦日なので、五十日以上毎日同じ小説に立ち向かっていることになります。まだ全体の半分あたりなので、この状態はつづくことになります。半分ならば単純に倍の時間がかかるという計算はすぐにたちます。でもゴールがどういう形でやって来るのかわかりません。わからないでおきたいと思っています。
 前回の手紙を書いた頃よりはだいぶ慣れてきました。この手紙もちょっと落ち着いているように思います。でも不安はまだあります。
 たとえば年末年始は世間の様子も違うし、また自分もその気分に動かされて、ついなにか別のことをしたくなったりします。でも誘惑に抗いながら、自分の敷いたレールにどう乗っていくかというのは面白いことなので自分の心を見つめるようにします。

 いまぼくが大事にしている言葉があります。
「一日も早くよいものを仕上げることよりも、一日も長くかけてよいものに近づいていくことだ」
 これまでは前者に力を入れて生きてきたように思います。これからは一日でも多く時間をかけて、よいものを仕上げるよりもよいものに近づいていく努力をしようというのがいまのぼくのテーマです。不安になったときはこの言葉を思いだします。

 チャンキーの手紙のなかで近親の方の病気から思いめぐらせたことが書かれてありましたね。河合隼雄さんは尊敬していた明恵上人や師であるユング先生のように死に際する予告となる死夢を見ることをひとつの目標にされていたことを著作などで述べておられました。しかしいまのところぼくの知る限りでは、河合さんはそんな予告を受け取ることなく突然倒れられたようでした。でもその後どういう形であれ十一ヶ月生きられたことはほんとうに素晴らしいことだったとぼくは思います。河合さんは意識もないし、ただ寝ておられただけだけど、きっとしんどかったはずでしょう。ほんとうはささっと死んでラクになったほうがよかったのかもしれない。でもがんばって少しでも生きようとされたのですよね。
 最近夜寝るとき、ぼくは河合さんの講演を聞くことがあります。そのなかで繰り返しきいてしまう言葉があります。
 簡単にいうとこんなことです。
 わたしは全然ダメで生き甲斐もなにもないといわれたクライアントの方がいた、河合さんはそこで、生き甲斐を持って生きている人なんか当たり前で、生き甲斐もないのに生きているなんてこれほどすごいことはありませんよといわれるのです。
 講演の録音ですから、会場の人はそこでドッと笑います。河合さんもちょっと笑いを含んだようにいわれてます。でも河合さんは本気でいってるのですね。ただ本気ばかりでいうのとも違うのです。いい按配としかいいようのない言葉の重さでいわれているんです。改めてなんてすごいんだろうとぼくは思いました。
 生き甲斐もなにもないのに生きるすごさ。
 ぼくは河合さんの最後の十一ヶ月にその言葉をかさねてしまいたくなります。河合さんは現代の医学ではもう話したり反応したりすることはできなかったでしょう。でもとにかく生きておられたということでどれだけの人が励まされたことか。人間はどんな風であれ生きていることでなにかを誰かに伝えることができる。またその生が終わっても、河合隼雄が生きたということがいまいるものたちに強いメッセージとなる。
 最後のページに一番必要なものはなんなのだろうか。
 それは生から死への扉を開ける力なのかなといまは思います。誰だって死ぬわけなので、みんなにその力は備わっていて、いろんな死に様があるのでしょう。でもどういう形であれ、死んでいくというのはすごいことなのではないだろうか。
 最近ぼくはお年を召した人を見ると、すごいなといつも思います。彼らはみんなもうすぐ死ぬかもしれない、あるいはもうそろそろ人生も終わりに差し迫ってきていると切実に感じながら毎日生きておられるのですよね。ぼくはなんてすごいんだろう、強いんだろうといつも思うのです。お年寄りはすごいです。彼らは死への扉という誰でも恐怖を感じる門のまえで勇敢に生きているんです。生あるもの、あるいは命などないものでも、この世にあるものはみんなすごいんですよね。

 

 ぼくはいま小説を毎日書いているわけですが、それを特別なことにしたくないので、一心不乱からおりたところがあります。毎日歯を磨いたり、泳いだり、誰かと話したりすることと同じような営みとして物語を書きたいのです。小説を書くこと、そしてそれが本になること、誰かに読んでもらえること、運がよければ大勢の人に読んでもらえること。どれもがふつうの暮らしから考えれば特別なことです。でもふつうだよ、なんにもたいしたことないよ、犬の散歩をすることと同じだよ、ぼくはそうなりたいです。人にちやほやされたい、ほめられたいなどの欲望がその思いの邪魔をします。それもぼくであるから否定できない。でもふつうのことにしたい。こんなことをわざわざ書くなんて、ちょっと自信がなかったりもするんでしょうね。この気持ちがどんな風に変わっていくのかも含めて、ぼくは自分の体にネジを巻くみたいに小説を書きます。

「泣き虫ハァちゃん」はまだすべて読んでないのですが、「ドングリ」の話の根っ子を生やして木になるというところにチャンキーの書いていた「でくちゃんぼうちゃん」の物語とのつながりを感じました。チャンキーも素敵な物語をたくさん持っている人なので、また新しい話をつくって見せてください。それから唐突に書きますが、関口知宏の「中国鉄道大紀行」を見ていると思うのですが、チャンキーは旅人に向いてます。そのうちふらっと旅にでて、いろんな絵や詩や物語をつくりながら、見知らぬ人と出会ってください。ぼくもいまの小説が終わったらふらっとどこかにいこうという思いがしています。

 夏の終わりから始めたこのやり取りが年を越してつづいていくことがうれしいです。それではまた来年。よいお年をお迎えください。
 今年時間があれば会って話しましょうと個展のときに約束したけど、それはまた来年にでも。

 



2007.12.31 西田俊也