3月の奈良以来ですね。おひさしぶりです。あの頃は西田さんが本の執筆が一区切りついた感じで、いろいろとお話できて楽しい時間となりましたね。まだ肌寒かった日々も今では初夏のような暑さとなってしまいました。この手紙も遅くなってしまって、、ごめんなさい。
奈良のカナカナでAさんについて話したこと、、その悩みをただただ聞いて,寄り添う、、ということのなんと難しいことでしょうか。つい「でも、、」という言葉を付けて,自分の意見をのべてしまうこと、、それでは悩んでいるAさんに寄り添うことはできないでしょうね。悩みにもいろいろあるでしょうが、なんにせよ語るよりも注意深く聞くことのなんと大変なことか、、
聞くこと、、待つこと、、その時間を大切にできる人、、まだまだ訓練が足りないボクですが、それでもこのところ気にかけている問題なのです。3月に展示させてもらった絵から続けて同じタイプの作品を10点ほど描きました。春ですから、近所の公園に咲く梅や桃や桜やチューリップなどの花を観察しながらの制作でした。家のベランダにあるシンビジュウムの花も沢山咲いてくれたので、毎日のスケッチはその花を描きます。
花を描くことは、ボクにとっても観察力をつける訓練となります。もの言わぬ花を見つめ描くこと、、寄り添うということに近い感覚かもしれません。「潜水服は蝶の夢を見る」の話題があの時も出ましたが、話すことも動くこともできない主人公に、日々辛抱強く寄り添い理解しようと務める周りの人たちの愛情が素晴らしいと感じる映画でしたね。やはりですが、そこには待つ時間が必要だということでしょうね。本を執筆するのも同じでしょうけれど、絵を描くことも「待つこと」がどれだけ重大なことなのか、、最近わかるようになりました。辛抱強くならなければ教えてくれない、、そんな秘密があるのだということです。
西田さんが書かれている「言葉で繭を作ること、、」それは凄い経験でしょうね。いつか終わらなければならないことを、いつか自らの力で破かなければならない、、その1点に放つ力が強ければ強いほど、強烈な作品が生まれるのだと思うし、感動が生まれるのではないでしょうか。どんな羽が生えたのか?それは本人には解らないのでは、、自分の羽を自分の目で見ることはできない、、なんて思うのです。ならば、西田さんが書いているように「羽を生えたのかが問題ではなく、繭にいた時間こそが心と身体に刻まれる」それが大切だいうことにボクも深く同意させてもらいます。
花は蕾のままでまだいっこうに咲く気配のないものもいますし、かたや、枯れて散ったもの、あるいは今が満開なもの、、それらすべてが1つのシンビジュウムに存在しています。描いているとどれも美しいなあ〜と思うのです。ボクらの生だって、ある時は蕾のまま枯れてしまうかもしれませんし、花の時期が短い時もあるだろうし、美しく咲き誇る時もあるだろし、それはこのたった1度の命の時間だけでは収まることなどできないような気がするのです。あるいはその様々な命の歩み方こそが多様性を産み、遠くから見れば大きな1つの美しき存在になってるのかもしれません。
でもでも、、ここでは、でもと書かせてもらいますが、もし自分が身体を動かすことができず、自らを表現することも、さらには想いを伝えることもままならず、気をまぎらわすことも難しいのであれば、、それはとってもとっても辛いです、、大きな1つの生の一部として、その役目を背負わされた、、なんていう風にはとても思えないでしょう、、、
それでも今を生きること、、動けるこの身体があるうちは今を大切にしたい、、そう思います。河合さんの最後の11ヶ月だって、西田さんのご友人も、、それがどんなに困難な状態でも身体は生き続けているわけですよね。そして見守っている人がいる、、西田さんはご友人を見つめ感じる、、どんなに無力感に襲われても、きっとご本人の笑顔を見れば、漏れる息の1粒1粒を感じれば、、無力感だって一瞬、散らばっていくのではないかと、、勝手な想像で申し訳ありませんが、、ボクは思うのです。「祈り」が生まれるのはそういう場所ではないかとも感じます。
|