西田俊也からの第8信

 久しぶりです。
 チャンキーは毎日花を描いてるのですね。花は美しいだけでなく、やがて朽ち果てていくわけだから、その内側に醜を持っていますね。毎日書くということはその変化につきあうことですね。
 ぼくが最近気にかけていることは、自分のなかに醜ともいえる、悪です。でも厄介なことに、悪は悪の形をしていません。悪人正機という言葉があるように、悪は悪をやろうとして始められるのでなく、正しいことをやっているつもりがいつの間にか悪になっています。悪は思いもかけないところにあります。ぼくはそれらを見落とさないように注意深く見ています。ここにあるのは悪ではないかというフィルターを用意して覗きこまなければ見えないことがしょっちゅうです。
 悪は小川に転がる石のあいだに潜む沢ガニのように狭い隙間に逃げ込むので捕まえるのにも苦労します。
 さらに悪というのは、悪と名前をつけた途端、その力を緩めてしまいます。水の底に向かって重みを増していく悪は突如重量をなくして水面に浮かび上がっていくのです。
 悪はすばしっこく逃げ惑うのに、悪と名付けられると途端に力をなくしてしまう。どうですか、チャンキーもそんなことはありませんか? 
 それともこれはぼくの場合だけで、名付けても引き返せない悪というものがあるのでしょうか。ぼくは絶対的な悪にまだ出会えていないのでしょうか。
 なぜ悪が名付けられた途端その力をなくすのでしょうか。悪は悪であることを隠しておかなければ悪にならないからなのでしょうか。
 ぼくは自分が小説を書いてるという状態を、人に知られることをあまり好みません。いま小説を書いているということを人に伝えるときとても慎重になります。知られた途端書く気持ちが少し萎えるのです。いくつか理由が考えられますが、書くことはぼくにとって悪に通じているからではないかと思います。小説を書くことは、名付けられないものに物語の形をつけて名付けていく作業なのではないのか。

 最近近江八幡まででかけて『アール・ブリュット展』をひとりで見てきました。アール・ブリュットとは、ぼくの言葉にいいかえると、習ったわけでもないし、頼まれたわけでもないのに、どうしようもなくやりたくなってしまって、誰に見せるわけでもないのに、ときには寝食も忘れて打ち込んでつくりだした、他のなにものとも較べられない独創的な表現物です。今回はスイスにあるアール・ブリュットの美術館と日本のアール・ブリュットの作家たちの作品が古い民家を改造された場所で公開されていました。
 ぼくは彼らの絵や彫刻といったものに善と悪が入り交じるものを見た思いがしました。たとえば自閉症であったりする人の描く絵には無垢であるとかきれいな心とかが描かれているようにいう人がいます。でもぼくが二時間かけて車に乗ってまででかけた絵や彫刻は違いました。
 段ボールの裏に結婚式というタイトルの元、子供とも大人ともつかない造形の男と女が並んでいて、そのまんなかに子供がいる絵があります。その人は同じモチーフでいくつも描いているようです。ぼくはここに善と悪を見てしまいます。結婚など一度もしたことのない身寄りのない年寄りの男が毎日これを描いている心のなかを覗くように思うのです。
 かつて廃墟の建築物が一部の人の心を徐々に掴んだように、「アール・ブリュット」が人の心をこれから掴んでいくのだろうと思います。作品そのものの力もさることながら、誰にも頼まれないのに打ち込む、つくったものは賞賛されることを望んでいないという佇まいは我々のいる場所から見れば悪でしょう。人々は誰かのためにやる、誰かに誉められたいというしばりに疲れているのでしょう。そのひとりのなかにぼくもいるので、彼らのつくるものに立ち会い、そしてそのまえで無言の会話をしたくなるのでしょう。
 ぼくがでかけたきっかけはそういうものでした。でも実際のものをまえにしたとき、得体の知れない悪と善が入り交じったような感触を受けました。
 ぼくの知っている悪は必ず最後に善にいきつきます。また善はいつの間にか悪に変わります。悪のなかに善があるのか、善のなかに悪があるのか。両者は区別できるものでなく、同じものなのではないか。どちらも同時に抱え込むことはたいへんしんどいことです。ぼくは彼らのつくるもののなかにそのしんどさを見ました。
 この展覧会はチャンキーといっしょにいきましょうといっていたものでした。チャンキーはこれらを見ていたらどんな思いを抱いたのでしょうか。

 話は変わりますが、最近本を読むのがとても面白いです。それも小説です。河合さんが『雨月物語』の解説で、できのいい兄貴とできの悪い弟がでてくる話をさして、このふたりはみなさんの心のなかにもいませんか、できのいい自分とできの悪い自分がといい、ふたりの人間を別々の人として読むのでなく、自分の心のなかにいる気持ちとして読みかえたら面白くありませんかといったのです。ぼくはその読み方で、小説を読むと、自分の心のなかを読むように響いてくることに気づいたのです。
 昨年新訳がでた『カラマーゾフの兄弟』をそんな風にして読みました。カラマーゾフの父親はまるで父親らしくない男で、息子の好きな相手にちょっかいをだすというダメぶりです。父親のひとりの息子は息子で、婚約者がいるのに他の女を好きになるし、働くこともしていない。もうひとりの息子は神も仏も信じない男で、兄貴の婚約者を好きになる。三番目の息子はまじめな修道僧で兄弟や父のおこないに心を痛めている。彼らはぼくのなかにいます。
 同じく『罪と罰』。主人公が金貸しの老婆を殺します。人殺しという罪はなかなか経験できないので、どこか他人事です。でもそれを自分のになかで犯した罪として読みかえればずっと身近なものとして物語が迫ってきます。
 小説は物語という形を借りたひとりの人間の心なのですね。ぼくは小説を読むことが楽しくて仕方ありません。小説は他人の見た夢ですね。それにじっと耳を傾けるという気持ちでページをめくると発見が多い。
 小説が売れないと嘆く業界の人たちの声、周囲で読んでいる人はどれほどいるのか。そう思うと小説はもう必要ではないのかと思うことがしょっちゅうありました。ぼくが小説を買って読んでいるのは、自分が小説家だからなのだろうか、もし小説家でなければぼくは読まないのだろうかと自問したことがよくあります。でも小説は物語を通して心の地図を見せるものなのですね。
 河合さんが、本を読んでください、小説を読んでくださいとよく書いてました。それは人の心に耳を傾けてくださいという言葉だったのでしょう。
 立花隆さんが若いときは小説をよく読んだが、最近はすっかり読まなくなったということを書いてました。同じようなことを他でも聞いたことがあります。ぼくは小説は若いときに読むだけのものなのかとあまりいい気持ちがしませんでした。でもこれほど情報があふれる時代になったいまこそ、ひとつの物語に耳を傾けることは必要なのではないかなと思います。
 そしてチャンキーからの手紙もこれは小説ではありませんが、ぼくにとっては小説のようなもので、チャンキーを主人公にした物語のひとつです。そのなかにある心がぼくに語りかけてきます。

 

 




2008.5.20 西田俊也